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ゼミ課題読書感想文

木内 勝也 201204

 


 

『プロタゴラス―あるソフィストとの対話』 エッセイ

はじめに

 善悪の基準とは何か、徳(アレテー)とそれでないものの差は何か、知と無知の違いは何か。凡そ哲学に携わる人間でなければ、ほとんど考えることもしないしこれらを明確に区別することは難しい。いや、哲学者でも判別できないかもしれない。私は「無知」な一読者として、プラトンの思想の入り口に立ち本書に向かう。

 本書はプラトン対話篇の初期、若々しいソクラテスが活躍するもので、後期のような思想色の強い論述作品ではなく、議論が飛躍しすぎない程度に論理的で比較的読みやすいものである。白熱する議論の中でまるでその場にいるように対話する当人同士の息遣いが伝わってくる。

 訳者によると、プラトンの作品ではこれという正解が解説されるではなく、正解を求めて試行錯誤する思考の過程が描かれているという。つまり核心的な解釈は読者にゆだねられている。その探求に対してもみずから批判的思考を鍛えながら読むべきだとする。ここではプラトンの主張で印象に残ったところと、疑問に思ったところを考察してみる。

 

本書の主張

 そもそも、日本語の「徳」は「人徳」のような高尚なものがイメージされるが、ギリシャ語の徳すなわち「アレテー」は高尚さのみならず万物がもつ固有の優れた性質を指す(p.211)。当時のアテネでは徳を持つ優れた人物が成功し、社会を動かすことができた。つまり徳の獲得が社会的成功に直結していたのだ(p.11)。しかし、徳を持つ賢者と呼ばれる人たちも実際には知恵がないにもかかわらず自分には知恵があると信じ込み、さらに徳の教示を通して金儲けをしていた。彼らソフィストの高慢な思い込みを批判したのがソクラテスだ。ソクラテスは知恵がないことの自覚(無知の知)に基づいて謙虚に本当の知恵を探し求めなければならないと主張する(pp212-213)

 この事実を前提としたうえで、本書でもっとも印象に残った部分を簡単に考察する。

―<自分に支配される>という事態は、まさしく無知にほかならず、<自分を支配する>という事態は、まさしく知恵にほかならないことになります。(p.84)― 

 <快楽に征服される>とは、最大の無知のことなのだ(p.182)や、<快楽が苦痛にくらべて値打ちがない>ということの意味は、快楽が苦痛を互いに比較したときの超過や不足といった、一方が大きくて他方が小さい状態を意味する(p.176)などの記述から、以下が考察できる。すなわち、人間が幸福であるためには相対的な見かけの持つ力(プロタゴラスの主張する相対的主張)ではなく、快楽と苦痛の正しい選択を可能にする絶対的な計量の技術こそが必要なのである。知識を持っていないため「快楽に征服され」間違った行為をしたにもかかわらず、ソフィストはその原因は無知ではなく別の何かだと思い込んでいる。

 ソクラテスは主張する。「計量の技術のほうは、その見かけの力を削いで、真実の姿を明らかにし、心が冷静にその真実の姿の上に留まれるようにし、生活の安全を保障する」(p.179

 

所感

 ソクラテスのやり口は巧妙である。自分は何も知らないまぬけのふりをして相手の意見を引き出し、その矛盾をついていく。相手の反論に卑下してそれでいて常に批判的な考えかたをして、相手がボロを出すのを待つのだから議論に勝つのも至極当然である。

 なぜ、そのようないやらしい手段をとったか、思うに「ソフィスト」の批判のためだ。本書では「無知の知」を自覚させることや何らかの真理に達することよりも、ソフィストたちの権威主義的ふるまいや脆弱な知に基づく詭弁を強烈な皮肉とともに指摘しているように思う。劣勢に立たされたプロタゴラスが苦し紛れに出した、ソフィストのお家芸である詩の解釈の際には玄人はだしに演説し、ソフィストたちがよくやるような詭弁的で誘導的な論述で攻める。また、プロタゴラスをはじめソフィストの徳の認識に対する誤認を感じ、徳は教えられないという立場から相手の自己矛盾を自覚させる。

 本書で、ソクラテスが自分たちを絶対的な常識とするソフィストの根拠のない自負を痛快に打ち砕いていく様が印象的だ。ただ本書を何度も読んだ今でも徳(アレテー)とは何なのか、核心的なところは肩透かしをくらったようでよくわからない。ソクラテスが正義や節度や勇気などすべてのものが知識であり、徳であると証明すると、むしろ徳は教えられると主張することになる。その一方、プロタゴラスが徳は知識とは別のものだと証明しようとすると、かえって持論を否定することになる(p.197)。両者が自己矛盾に陥ったまま再度の考察を前に本書は幕を閉じている。

 また、両者の徳(アレテー)の本性は明らかにされることはなかった。あえて言及を避けることで、プロタゴラスに教えを請おうとするヒポクラテスをわれわれ読者になぞらえて哲学の世界に誘っているとも考えられる。

 「あとで考慮する神」エピメテウスが分配し忘れた人間に、「あらかじめ考慮する神」プロメテウスが技術という知恵と火を与えたというが、果たして人間を堕落させたのはどちらの神なのだろうか。神の力を与えられたことで人間は真理にたどり着くと思い込んだのだろうか。それとも堕落を経ることで、神にも等しい人間という高慢な考えを脱皮できるのだろうか。真理だと思っていたことは実はあいまいな常識に基づくものだと知ったとき無知の知に近づくことができるのではないか。

 

参考文献:

 田中伸司(1998)『ソクラテスの知恵とソフィストの知恵:『プロタゴラス』篇におけるシモニデスの詩を巡る議論』 北海道大學文學部紀要

 

 

『江戸川乱歩傑作選』エッセイ

17100169 木内 勝也

はじめに

 江戸川乱歩というと『少年探偵団』シリーズのような謎解きもので有名だが、本書は乱歩初期のドロドロした人間模様を巧みに表現した「恐怖小説」である。以下、各編の簡単な推察を述べる。

 

-二銭銅貨

 暗号をもとにした乱歩初期の探偵小説。謎解きを果たした松村を私はどう見ていたのだろうか。高みの見物とばかりに、愚かにも私の手の平で踊る滑稽な松村を見て笑っていたのだろうか。謎解きという知的バトルに勝利して、してやったりというのが私の本心であろう。何とも純粋ないたずらである。

 結末で、「或る人」への明言を避けているのはすべてを語らないことで読み手に想像させるためだろう。読者を煙に巻くような語りぶりは、読み終えた後もあれこれと夢想させてやまない。

 

-二癈人

 木村氏は斎藤氏に真実を話すべきだったのだろうか。自分も濡れ衣を着せられた井原氏も捕まらずにすむ方法をとったが、井原氏の心には大きな傷となって残っていた。井原氏が告白して初めてそれに気づいた。井原氏が本当は殺人など犯していないことを伝えたかったのか、あるいは自身の懺悔のためか、私はきっとまた仲直りしたかったのだろうと思うが、真実を話した。

 自分を廃人とさせた原因が自分ではなく木村にあったと知った時、後悔よりも自身の愚かさを感じた。愚鈍な自分の性格はきっとこの純粋さからくるのだと。そして、自分の愚かさを気づかせてくれたのは皮肉にも真犯人であったのだ。

 この作品を読んで私は、犯人と真犯人の関係からくる懺悔や後悔よりも、あまりに純粋な井原と斎藤の奇妙にも稀有な友情を感じずにはいられない。「何かしら、二人のあいだに前世の約束とでもいったふうのひっかかりがあるような気がしていた」(p.46) の描写のように、二人は持ちつ持たれつの関係であったと考える。

 

-D坂の殺人事件

 名探偵明智小五郎の初登場シーンである。自身の推理をいともたやすくかわす明智の卓越さと真犯人を見抜く洞察力には目を見張るものがある。

 「彼らのパッシヴとアクティヴの力の合成によって、狂態が漸次倍加されていきました。」(p110)の描写からは乱歩が表現したかったであろう、犯罪の間に見え隠れする狂気とおかしな美しさが同居しているような感じがする。

 

-心理試験

 まず捜査段階で心理試験のありかたを明智が述べたシーンがあったが、真犯人が見つかってから再度心理試験のありかたに言及したのがいかにも、明智らしい。捜査のはじめは下手に出て、するどい視点から相手がボロを出すのを待ち真実を追求する。なんとも巧みな手法である。

 はじめから犯人がわかっているという探偵ものの固定観念を打ち破ったという意味でも斬新的であり、犯人蕗屋の心理が移り変わっていく様子にハラハラさせられる。

  

-赤い部屋

 「巧妙なトリックを考え出したときの(中略)有頂天にしてくれたことでしょう。」(pp.174-175)にあるように、Tは殺人を美学や芸術のように感じていたのだろう。乱歩の生み出す狂気というべき完全犯罪のアイディアの数々は読者をハッとさせるものばかりだ。淡々と告白するさまはドロドロした情念を表すのではなく、不気味な透明感のある作品で、読者をひきつけ最後の最後まで固唾を飲んで没頭することができた。

 

-屋根裏の散歩者

 完全犯罪をもくろむ三郎だったが心では葛藤があった。「この計画には破綻がないと、(中略)どうすることもできないのでした。」(p.228)にみられるように、我が身かわいさで犯行を計画する一方、シェークスピアの詩の引用にみられるように、どこか隠しきれないとうことを予想していたのだろう。明智によって見破られたところで「時々ボンヤリと(中略)浮き出してきたりするのでした。」(p.249)とあるように、自分の知力に思い上がった鼻をあかしてくれる人物に出会ったことで、自身の退屈の原因が何であるのか気づけたのではないか。

 本編で、明智の真実への飽くなき興味がある一方で、真実を知ること以外には興味がないことが明智の無邪気さと冷淡さを表していると感じた。

 

-人間椅子

 あえてタイトルを省いていたことは、それを手紙のように思わせ最後まで真実だと思わせる効果がある。最後で「ネタバレ」しても読者が興ざめしない理由には、手紙の内容があまりに現実味があり、いつまでも残る生々しさがあるからだろう。

 「人間椅子」という題からもそうだが、作品全体の描写には歪んだ欲望と倒錯が見えるにもかかわらず、読み終わった直後には妙な清々しさが残るから不思議だ。

 

-鏡地獄

 全面鏡張りの球体の内側に入ったらどんな光景が見えるのだろう。物語の主人公「彼」は鏡の世界に魅了され、鏡の世界に飲み込まれた。淡々と実験を遂行していく彼に私はただ傍観者として付き添っており、また鏡という無機質なものが持つイメージのためか、物語全体が冷え冷えとした印象を持つ。

 「われわれには、夢想することも許されぬ、恐怖と戦慄の人外境ではなかったのでしょうか。」(p.308)にあるように彼はきっと人間の踏み入ることのできない悪魔の世界を垣間見てしまったのだろう。何だか、少し見てみたい気がする。料理のボウル二つをくっつけて中にカメラをつけるのはどうか。もちろん中が真っ暗で何も見えないという横やりのために照明も忘れずに。

 

-芋虫

 露骨な描写が満載で、エログロ趣味の極限ともいうべき乱歩独特の世界観が現れている。戦争によって不具になった夫を支えていたのは軍人としての名誉であったが、月日が経つにつれそれは異常な食欲と肉欲に代わっていった。夫を支える妻は異形の夫を恐ろしく思っていたが、夫を玩具のようにして遊びたいと思う自身の残虐性に気付いた。夫に唯一残ったあまりにもつぶらな両目は感情を表現するものであった。その唯一開かれた外界への扉が妻を非難するような気がして、ついに妻は夫の目をつぶしてしまう。

 私はこの作品は単なる残酷物語ではないと思う。「彼女は、彼女の夫をほんとうの生きた屍にしてしまいたかったのではないか」(p.334) には妻の残虐性が見られる一方、夫を生き地獄から解放させたかったと捉えられる。また、妻の愚行への懺悔を決死の覚悟で許し自ら命を絶った夫の行為も妻の今後の人生を思って身を引いたためのものかもしれない。幻想的で怪奇な結末には、もの哀しさとどこか美しさが残る。

 

まとめ

 本書の作品では、人が単純な嫉妬や憎悪から殺人を犯すことはない。用意周到に計画を立てる犯人も、ただ、退屈という動機によってのみ犯行を起こす。どこか飄々として厭世的な彼らにはどうしても憎み切れないところがある。作品全体から人間の変態性や滑稽さが本人の性癖も相まって滲み出ている一方、それでいて純粋な人間を思わせるから不思議だ。愚かにも退屈さに負けて罪を犯す人間をかくもおかしく表現するのかと思うほど、人間の内面的な心理を皮肉たっぷりに表すのが小気味いい。

 

 

『罪と罰』エッセイ

17100169 木内 勝也

はじめに

 本作を読んでまず思ったのは「悪人のすべてが悪ならず、善人のすべてが正ならず」ということである。読む前に持っていたラスコーリニコフのイメージは、完璧な殺人理由に則り、美学すら感じさせるものだったが、読んでみると彼自身も人間を超越しきれずに悩み葛藤するのだとわかった。他の登場人物もそれぞれ葛藤を続け、道を踏み外していく。

 没落していく彼を取り巻く人間模様は多様で、話が進むにつれますます複雑になっていく。以下、2つの印象に残ったシーンを取り上げ、最後に本作を読んで感じたことを述べる。

 

印象的なシーン

・「p13 人間というやつは、いっさいを手中にしているくせに、弱気ひとつがたたって、みすみすのいっさいを棒にふっているわけなんだ…」

 現行秩序に満足して人間を超えようとしない俗人たちは、現状に満足し、いわば「肥えた豚」に甘んじている。ラスコーリニコフにとっては、彼らは凡人であり、非凡人に征服させるべき人間である。人間を超えることこそが本作における「罪」であり、人間を超えてしまえばその罪もなかったことになるというのが私の感想である。ただ、体制破壊という大それたものではなく、凡人も人間を超えられうる可能性があるという含みを残す。

・「p31(上)しかし、貧乏もですよ、洗うがごとき赤貧となると、こいつはもう悪徳なんですな。(中略)貧乏のどん底に落ちた人間は、棒で追われるものじゃない、箒でもって人間社会から掃きだされる。つまり、屈辱を思い切り骨身にこたえさせろという寸法ですな。」

酒場で飲んだくれるマルメラードフが積年の鬱憤をぶちまける。家族が食いつなぐために娘までも身売りさせるほど貧しきことこそ悪である。貧困は人間を人間以下のものに変えてしまう。窮乏は人間性を破壊する。だから、「貧乏のどん底」に落ちると、人間は自らを軽蔑し、卑しめるようになる。またそうすることで自らの自尊心を保とうとする。貧しさを美徳とするのは、惨めさから目を背けるためであり、したがって虚偽の事柄ではないだろうか。

 

所感

 タイトル『罪と罰』の「罰」は原義では「踏み越えること」である(解説より)。ラスコーリニコフによれば、人間は「凡人」と「非凡人」に分けられ、凡人は平凡ゆえに現行秩序に服従せねばならず法律を踏み越える権利を持たず、非凡人は非凡ゆえにあらゆる犯罪をおかすことができ法律を踏み越える権利を持つ。彼は、既存の秩序を「踏み越え」ようとし殺人もなにもかもが許される超越的な人間であると考え殺人に至った。

 しかし、彼は超越的人間ではなかった。殺人を犯した彼には葛藤や良心の呵責が待ち受けていた。踏み越えようと意識をしなければならなかった時点で、また良心の呵責があった時点で超越的存在ではないことを自覚していたのではないか。

 ラスコーリニコフの犯罪論理は屁理屈で自分にしか通用しないものであるが、ナポレオンのように自己弁護的に体制秩序の破壊を目論むものではなく、極めて謙虚で脆い論理の上に成り立つものであった。彼の犯した本当の「罪」は老婆殺しではなく、「人間を踏み越え」ようとした罪ではないだろうか。そして人間を「踏み越える」ことができなかった彼は「罰」を受けた。ここでの罰とは、彼が空しくも人間を踏み越えようとした行為に対する懲役だと思う。

 秩序からの解放を求めて人間を踏み越えようとしたラスコーリニコフに足りなかったものは、彼自身がどうしても捨てきることができなかった、彼を今まで作り上げてきた「良心」や「予定された葛藤」である。本作品は、秩序からの解放に哀れにも失敗した人間を取り巻く群像劇のように感じた。最後に私はまだこの本を通読しただけだが、改めてじっくりと読んでみたいと思う。また、新たな発見があることだろう。